touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】500日のサマーとアメイジング・スパイダーマンが訴えかけるもの                 ―マーク・ウェブの目論みについて―

1.映画監督としてのマーク・ウェブの目論み

 500日のサマーは言わずと知れた、若年層の恋愛に関する、そして特に男性にとっては一定のリアリティのあるロマンス映画である。一方アメイジングスパイダーマンは、原作がアメリカン・コミックであるものの、初期スパイダーマンとは違った顔の見えるアクション映画だ。ともに監督はマーク・ウェブ。このマーク・ウェブの映画に対する表現の目論みは、もっと強調されてよいように思う、というのがこの記事の主な主張である。


 さて、一見すると、ポップな恋愛映画と水準の高いアクション映画には表現の方法において同一性を見出すことは困難であろう。当たり前だが、ジャンルの垣根は映画の細部における表現に大きな制約をもたらす。だがこのマーク・ウェブの提起する問題は、実にわかりやすい形で、両方の映画に・しかも同じような形で具現化されている。

 一言でその問題を極めて抽象的なかたちで定式化するとすれば、「われわれ(特に男性)が生活する上で何に対して強い重要性を置いてしまうのか」という問いである。そしてより卑近な言い方をすると、「恋愛は生活をするうえで、他の全てのものより優越することのできる事態になることがある」、というふうに言い換えられるだろう。

 さて、恋愛体質の人(特に男性)は常日頃、例えば恋愛体質でない人から「何故、そこまで恋愛にこだわるのか」という疑問、あるいは「そこまで失恋して落ち込むことはないのに」等の言明を受けることが多くある。だがしかし、である。マーク・ウェブの目論みは、おそらく次の点にあるだろう。すなわち「恋愛体質である人(特に男性)を稚拙な考え方を持つ人である、として無思慮に断罪することが出来る人」への根本的かつ痛烈な「分かっていなさ」への批判だ。

 ここでは実際にそれぞれの映画物語の内容を確認することで、主人公のキャラクターの特徴を抽出していき、それぞれの同一性からマークウェブの目論みを読み解いてみようと思う。

 

■500日のサマーでのトム

     
     (500)日のサマー - YouTube

 

 簡単なあらすじは以下の通りだ。

LAで、グリーティングカード会社で働いているトムは、地味で冴えない毎日を送る青年。ロマンティックな出会いを期待するも、大学で建築を学んでいた彼にはグリーティングカード会社での仕事はつまらなくて、職場にはおばさんばかり。
そんな彼はある日、秘書として職場にやってきたサマーに一目惚れしてしまう。出会いから4日目、トムが偶然サマーと同じエレベーターに乗り合わせたとき、ふいにサマーは「わたしもザ・スミスが好き」と声をかける。そしてそこから二人の交流が始まる。ストーリーはトムの空想と、サマーとの実際の関係を絡めてどんどん進んでいく。
会社のパーティーの帰りがけに、トムはサマーに好意を寄せていることを告白するのだが、サマーは「友達になりましょう」と言うだけであった。34日目、イケアで新婚夫婦ごっこをしたり、ランチピクニックをしたりと徐々に親密になっていく二人だが、期待するトムに対してサマーに「真剣に付き合う気はないの」と言われてしまう。そしてトムは、不本意ながらも「気軽な関係でいいよ」と妥協してしまう。
そして109日目、サマーの部屋に招き入れられたトムは、サマーとの関係が一気に進展したと感じるのだが……。(wikipedia)

 

 概ねの粗筋は上記の通りなのだが、その後、進展した関係はあまり長くは続かず、一度作られたふたりの関係はサマーの方から解消されることになる。サマーから関係を解消することについて、少し原因を考えてみよう。

 トムは「地味で冴えない」ことに加えて「ロマンチック」な青年として描かれている。トム演じるジョゼフ・ゴードン=レヴィットの容姿を含め、確かに自意識を大きく持ちすぎ、現実的ではない、という程度の意味でロマンチックと言えなくはないだろう。the smith の楽曲を好むところ等もそうだ。サマーとの恋愛の発展が期待できるときの、トムの浮かれようを見ても極めて「単純な男子」だという表象を得ていると言える。また、生活の上で恋愛こそ至上である、としてしまう恋愛に依存してしまう弱い男性像が前景化されている。

 このトムは、サマーの振る舞いのひとつひとつに対して、自分の側の解釈フレームによって対処しようとする。それはいつのまにか、自分の思い通りにいかない関係に苛立つ、言わばわがままな子供のような振る舞いに類似してしまう。はじめ、サマーが明らかにトムに対する好意を表現するうちはそのことに安堵するが、サマーが恋人かどうかよく分からないと思った瞬間、ふたりの関係をハッキリしたいという、相手を無視した独り善がりに発展してしまう。なぜなら、恋愛関係に対して自らが望む期待が得られなくなったこと、つまりはサマーが自分自身のことを第一に好いてくれていないかもしれない、という疑心に駆られたからに他ならない。こうした振る舞いを期待するトムのもとから、結局サマーは自由奔放と言わんばかりのスタンスで立ち去ってしまうのだった。

 そうして落ち込んでいたトムは、仕事での自己実現を成し遂げるようとすることで、サマーの記憶から抜け出すことを試みる。仕事での充実を得るために転職を開始するトム。映画の最後にはこの就職面接の描写があるのだが、ここでまた新たな女性オータムと出会うことで、トムは新たに「出会いには運命ではなく偶然があるだけだ」ということを学習するのであった。

 さてしかし、トムは人一倍ロマンチズムな傾向を持っている、と言えるのだろうか?問いはこのように設定する必要がありそうだ。その理由は物語の初めに言われるように、トムは「各方面のメディア」によって純粋な恋愛というものが有りえる、というロマンチック・ラブの美化された理想を植え付けられた、という点が大々的に喧噪されていたからだ。つまりは幼少期から大衆メディアの発展によって、恋愛のあり方、あるいは恋愛のロールモデルをメディアから看取することによる、純愛的なものへの期待外れが生じるというわけである。the smith「Please Please Please」が典型だろう。

 だがよく考えてみると、こうした純愛にすがる人(特に男性)は少なからずふつうの人格類型ではないだろうか?いわゆる大衆メディアが作り出す似通った人格類型は、同じようなロマンチズムの傾向を示すのではないだろうか。生きがいとして恋愛にすがる、つまり恋愛を生活の最重要項目として置かざるを得ないケースが、誰であれ極めて大きな可能性があるということだ。マーク・ウェブが焦点をあてているのはまさにこの点である。つまり、トムに表現させたかったのは、別にどのような人であれ、常にこうした純愛に対する構えが作られていることだった。それはトムの凡庸さを見ても明らかだろう。われわれはマーク・ウェブから恋愛体質の人間を非難することはできない、という生活上での批判を受け取らなければならない。

 そして恋愛に対する期待外れ(まさに失恋)が生じたとき、恋愛以外の事柄に期待するという代替手段が採られる。ここでトムは仕事という手段を選んだわけだ。ただし皮肉にもトムはその新しい手段を選んだにも関わらず、新たにオータムという異性と出会うのだった。

 

アメイジングスパイダーマン(2)でのピーター

 アメイジングスパイダーマンは、原作がアメリカンコミックである。もともとサム・ライミが監督した3部作が2002年以降公開されていたが、監督をすげ替え、マークウェブが担当するアメイジングスパイダーマンが2011年に公開された。基本的には両監督とも原作に沿って作品を完成させている、というように考えらえているが、アメイジングスパイダーマンの側には大きな違いがある。特に2作品目に顕著に表れているのが、恋人との関係の描写に極めて強いスポットを当てている点だ。実際マーク・ウェブはピーターとグウェンの関係を焦点化するために、すなわちより2人の関係をテーマ化するために、MJ(メリー・ジェーン)を登場させないことにしている。

 

 スパイダーマンとしてニューヨークの平和を守るピーターは、恋人グウェンとすごす日々を満喫していた。しかし同時に、彼女の亡き父親ジョージと交わした「彼女を危険に巻き込まないために別れる」という約束を果たせず苦しんでいた。そんなピーターを見かねたグウェンは、彼と別れることを決意する。

 

      
『アメイジング・スパイダーマン2』予告編(大ヒット公開中) - YouTube

一方、オズコープで働く電気技師のマックスは、街の送電システムを設計した優秀な男だったが、その冴えない風貌と性格から誰からも好かれず、自身の命を助けてくれたスパイダーマンに異常な執着を見せていた。ある夜、彼は作業中の事故で電気人間(エレクトロ)になってしまい、その力をコントロールできず街を破壊してしまう。これを止めに来たスパイダーマンに名前を覚えられていなかったことや、自分とは違い人々から愛されている姿に嫉妬した彼は、スパイダーマンの命を狙うようになってしまう。
そしてその頃、オズコープのCEOであるノーマンが死去。彼の息子であり、ピーターの旧友であるハリーがニューヨークに戻り、オズコープの新CEOに着任する。しかし、彼も父同様に不治の病に侵されており、その命は残り少ないものだった。彼は父が残した過去の研究データから、治療するにはスパイダーマンの血液が必要だという結論に達するが、それはあまりにもリスクが高すぎるため、ピーターはスパイダーマンとして血液の提供を拒否する。これによりスパイダーマンを憎むようになったハリーは、エレクトロと共謀して彼の抹殺に動き出す。(wikipedia

 

 2作目では、ピーターとその恋人グウェンの恋愛が一つの大きなテーマとして挙がっている。この点はサム・ライミの作品構図と大きく異なることはない。だが、その描き方、あるいはテーマ化の仕方については、違いがあることに注意が必要である。というのも原作通りとは言え、アメイジングスパイダーマンの方では、グウェンには死、つまりは恋人が去ってしまうという出来事が待っている、という点だ。

 そもそもピーターは1作目でグウェンの父の死を経たため、グウェンとの関係に思い悩むことがあった。それは自身がスパイダーマンとして街の悪と闘うことでいつかはグウェンを最終的に失ってしまうのではないか、という恐怖であり、スパイダーマンとしての役割、そして同時にグウェンの恋人としての役割をともに遂行することに対して葛藤が生じている。

 そして映画の物語の上では、この葛藤は生活上の問題として、「どちらに重きを置くべきか?」という問いに変換される。つまり、恋をとるべきか、スパイダーマンとして街に貢献すること・すなわちやるべきこと(仕事)をとるべきかという問いだ。 しかしなぜ、ピーターはこうした葛藤に苛まれる必要があったのだろうか。それは結局、グウェンが傷つくことを恐れ、それでいてスパイダーマンとしての役割を推し進めることに躊躇するのは、恋愛が生活上、他のことよりも重視されなければならない項目として置かれていたからに他ならない。恋人が傷つくことを避けるために葛藤しているのだから。そしてこの問いに苛まれながら、ピーターのグウェンに対する振る舞い方は、ある意味で極めて女々しいものとなっていくのだった。

 他方でグウェンは「自分自身のやりたいこと・実現したいこと」として科学者(化学者)になる夢を持っている。この夢を実現するため、卒業後にロンドンへと留学へ行くことを考え始める。そしてグウェンはロンドン行をどうするか思い悩んでいる際に、ピーターに別れを告げる。こうしてグウェンがお互いに友達に戻ろう、と打診する際に、グウェンがお気に入りだという場所で話をするシーンがある。ここでピーターは、1日に何度かグウェンの安全のため、見守っていたことを何とも女々しい表情で告白するのだった。 こうして本作は漫画という原作があるものの、(例えば「スパイダーマン」と比較すると)ピーターの演出がヒーローであるはずなのに、私生活での恋愛に対する免疫が極めてぜい弱なものとして描かれている点が象徴的だと言える。それほど、ピーターも凡庸なのだ。

 加えてもう一つ象徴的なのが、グウェンの死後におけるピーターの復帰の仕方だ。ピーターはグウェンの死を受け入れることが出来ずにいたが、最終的にスパイダーマンとしての役割を看取することによってグウェンの死を乗り越えようとする。それはつまり、望まれた恋愛が不可能になったとき、スパイダーマンとしてのやるべきこと(自らが為すべき仕事)を定め、恋愛の悲惨を乗り越えようとすることを意味する。まさに500日のサマーでのトムの生き方と、全く同じ構図だ。こうしてマーク・ウェブの目論みがはっきりと浮かび上がる。

 

 

■恋愛の至上性という課題

 両作品から見えてくるのは、特に「ふつうの」男性の恋愛に対する感受性、そして生活する上で何を重要項目として設定するのか、という問いだ。主人公は、共に恋愛を生活上の最重要項目として置くことを躊躇しない。トムはサマーにとことん付き合おうとするし、ピーターはイギリス行きのグウェンに付いていこうとまでした。にもかかわらず両者とも最後には恋人を失い、失ったことを乗り越えるために、代替手段として仕方なく仕事(としてやるべきこと)を持ち出す。殊、男性においては最も失恋を乗り越える合理的な手段が、仕事での自己実現以外にありえないという、極めて強いリアリティを表現するかのように。そしてこれらの表現は、恋愛が生活するうえで極めて重視されてしまう事態でありえること、また同時にこのことが2人の生活上の凡庸さから、誰にでも起こりうる極めて一般的な事態であるということを訴えてくる。

 こうした表現を世の中(特に男性)に問うマーク・ウェブなら、次のように言うだろう。すなわち「恋愛などというものは人生のなかで煩わしいだけの、何の意味もないものだ」として位置づけることが出来るのは、ただその人が恋愛に対する免疫がないことを主張するにすぎない。というのも、トムやピーターのように恋愛に対して過度な純愛を期待してしまうことは決して一部の恋愛体質の人間に限られた話ではないからだ。それは望む・望まないに関わらず、キリスト的救済として目の前に現れるてしまう。というのも、恋愛は「これこそが本当の恋だ」「まさに運命の人だ」というような体験を可能にするのだから。恋愛体質であるかどうかに関わりなく、2人を見ていれば、凡庸であっても恋に落ちてしまうことが有り得るからである。

 恋愛をこのように崇高なものとして定義しなおす作業は、一般的な恋愛映画とは似ても似つかない。なぜなら、ふつうの映画であれば、ほとんどが「恋愛の仕方」や「失恋からの回復テクニック」等極めて卑俗なテーマとして、ある意味で恋愛をうまくやり過ごすためのゲームのようなモチーフに変えて定式化する方向に向かうだろうから、である。

 両作品において提示されているのは、むしろ恋愛が生活に救いをもたらすこと、そして恋愛が生活のすべてとなって、他方その救いが救いでなくなったとき、当事者にとってどうやっても避けることのできない非常事態として立ち現われることである。だから恋愛は生活の中で突如として至上性を持ち、その他のことに手がつかなくなる。失恋という形式は、当事者にとって乗り越えらえないものとして立ち現れる。特に男性にとっては、仕事の自己実現くらいでしかまっとうに対処できない事態として。

 それゆえ、マーク・ウェブの目論みは、「恋愛が他人事である」といって高笑いする一部の無頓着な人たちを徹底的に批判することにあるのだろう。なぜなら恋愛の至上性は、単にある人が恋愛体質かどうかとは全く独立した課題であることを、これら2つの映画は教えてくれるから。