touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】トレーニング・デイ

 本作は、ロス市警に麻薬捜査官として新たに配属された白人警官と、ベテラン黒人警官の一日を描いた作品である。ウィキペディアの文章では、以下のような紹介が為されている。

 


Training Day Trailer HD - YouTube

 

 ベテラン刑事と新人刑事の組み合わせというバディムービーにありがちな設定だが、本作は二人が対立を乗り越えて仲良くなるようなことはなく、むしろ対立が決定的決裂に至る点でバディムービーとは全く異なっている。善良な人物役が多いデンゼル・ワシントンが悪役に徹底したことでも話題になった。また作中ではストリートギャングの縄張りが重要な場所となるが、撮影は本物のストリートギャングの協力を得て実際の縄張りで行っており、ロサンゼルスのストリートが現実的に再現されている。

 

 ロス市警の麻薬取締課に配属された新人刑事ジェイクはベテラン刑事のアロンゾと組むことになったのだが、「狼を倒せるのは狼だけ」=悪を倒すには悪になる必要があるというアロンゾの姿勢に正義感の強いジェイクは次第に不信感を募らせていく。一方アロンゾにはある計画があった。

 

 確かに一見して、この映画は一般的なバディムービーと呼ばれる普通の警官ペアを描こうとしていない。そもそもペアになる警官の人種の違いがあること自体、バディが最終的には警官の役割を全うするために、互いに理解を積み重ねていくような普通の映画とは少し違っている。だが、ポイントは本当にそれだけなのだろうか。

 この映画の素晴らしいところは、おそらくそういった部分にあるのではない。まず作品全体を通して見えてくるものは、他の映画にもありがちな「正義」という概念同定がモチーフになっていることである。他の映画と同様、この映画も「正義」というおそろしく抽象的で、共通の判断が行われないような定義を巡って為されている営みに対して、ひとつのアプローチを採って表現を行っている。この点については、他に類似する映画が山のようにある。だが、むしろこの映画では、アプローチの仕方が実に巧妙に設計されている点が評価されてよい。

 というのも、その特殊なアプローチである所以は、アロンゾがジェイクに対して強烈に新たな世界体験を開いていくことに関連している。配属された初日で、作品自体が完結するようになっていることが既に象徴的であるように、このたった一日でジェイクは今までにない世界の体験を植えつけられる。こういった体験の加工が可能だったのは、恐らくアロンゾが生活する世界そのものが特異だったからだ。逆に言えば、ジェイクはそれほどに凡庸だった。

 アロンゾが生きている世界は、第三者がイメージする単なる市警としての麻薬捜査官の生きる世界ではなかった。彼が生きている世界は、殆ど麻薬の密売人と変わらない。密売人を見つけては捕獲するものの、麻薬を取り上げては金品等をも強奪し、そのお金を使って自己保身を目論む。そこには犯罪者と言っても過言ではないアロンゾの姿があった。ただし自己保身だけではなく、実際に麻薬密売人の大物を検挙しようとする姿勢を持ち合わせているのがポイントである。ジェイクが期待する「正義」は、ここに見え隠れしていることを見逃してはならない。

 先に述べたようにジェイクのトレーニングデイは、アロンゾに引きずりまわされることによって特徴づけられているのだが、アロンゾの刑事としての行いが自己保身か正義かどうかの区別がつかないような状況を提示されるたびに、ジェイクの体験はさらに生き生きとしたものになってゆくのもまた事実である。アロンゾは、当然ジェイクよりもロスの麻薬事情に詳しく、またそれだけ街のことをよく知っており、売人の世界・黒幕の世界・一般的な警官の世界、などについて相対的に深い情報と知識を持っている。街の空気感に完全に馴化しているといってもよい。このような世界に対する情報量の非対称性が、アロンゾとジェイクの関係を形作っている。そしてこの非対称性は、ジェイクが求める「正義」の定義を巡る問題を惹起する。例えばアロンゾの発言に、「非常時はルールをやぶれ、そうでなければ悪党をこらしめることはできない」というような、明らかに警官らしからぬ(まさに政治家のような発言のような)ものが含まれる。この含意に対し、ジェイクは大きな疑念をもってアロンゾに視線を向けるのだが、まさにこの疑念を踏まえた学習こそが、「正義」の定義を巡って為されると同時に、それゆえにジェイクは凄まじいほどの体験加工を経験することになるのである。それが自分の職業にまつわる信念に直結する事柄だから、である。

 そしてこの体験加工が、すぐにアロンゾに反抗しようとする態度に直結しなかったのは、ジェイクにとっての「正義」を巡る定義の困難があったからである。ふつう、アロンゾの行為が明快なさまで「正義」を逸脱するということがわかれば、ジェイクは彼に制裁を加えていたであろう。だがジェイクはそうできなかった。逸脱する/しないということ自体が明確でなかった、というわけではない。明らかにアロンゾの行為は逸脱した行為だった。にもかかわらずジェイクが彼を信じえたのは、偏に帰結主義的なものとして、最終的には悪を裁くという目標に到達できると納得できなくはなかったからだ。ここに正義の功利主義的な帰結主義/行為主義の区別の問題を見て取ることは容易であろう。こういったパターンで正義の問題を描く作品は多くあるなか、この作品では、主人公の世界体験が一日で変わってしまうということに象徴的な通り、まさに<体験の脆弱さ(あるいは体験枠組み変換の容易さ)>から<正義の不安定さ(あるいは正義が一意的でなくアドホックなものであるさま)>を浮かび上がらせることに成功していることだ。まさにこのアプローチが他の作品に比べ、非常に優れていると言える所以である。

 このような正義の問題を巡って行われる体験の加工、これこそがまさにこの映画のテーマになっているのだが、最終的にジェイクはアロンゾを敵対視する方向を取ることになる。お互いの関係が決裂した後、ジェイクはアロンゾを追い込み、アロンゾはロシアマフィアの手によって殺される。そして最後に、ジェイクがひとり歩くシーンが挿入されているが、もうここにはアロンゾという悪を処分し自身の正義を貫き通したというヒーロー映画に特有の達成感はない。そこにあるのは、たった一日で世界体験をひっくり返された、自分の信念を変更することを余儀なくされた、不幸で未熟な男の姿だけである。

 さて、最後に正義の不可能性を扱う映画でも、もっとも代表的な一連のバットマン・トリロジー作品と比べると、この映画のテーマがより明らかになる。バットマン3作の中でも、微妙にテーマが違ってくることは脇に逸らすとして、基本的モチーフとなっているのは「正しい行動」を徹底して貫く場合、それが多数者にとって認められないものへと転化する、という基本的なテーゼがある。そしてこの一部の人にしか認められない「正しい行動」を、悪を裁くことによって具現していくために、バットマンは鍛錬を重ねることが基本的な条件となっている。翻って本作トレーニングデイでは、鍛錬を重ねて悪を裁くどころか、常に世界が目まぐるしく変わっていき(売人の世界・黒幕の世界・一般的な警官の世界)、正義のルールが通用する部分的な、そして多数の世界が開示されるがゆえに、バットマンでさえ描いていたヒーロー特有の鍛錬の過程が対象とされることなく、あっという間に正義の一義性が過ぎ去ってしまい、残るのは正義の多数性のみである。ゆえに、「正しい行動」がアロンゾに対抗することが分かったとしても、作品として「正しい行動」の多数性が非常に後味の悪さを残すことになるのである。