touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【ドラマ】闇金ウシジマくんseason1&2

 闇金ウシジマくんに関する話題というのを意外と聞かないので、ドラマについて。

 

 端的に「ドラマ」という点からみれば、シーズン1の方が圧倒的に面白いです。というのも1の方が人間関係の圧倒的な<不条理さ>が全面的に押し出されているからです。2も<不条理>と言えないこともないですし、むしろ登場人物の一人のうち宇津井について言えば、<不条理さ>についてかなりインパクトがあると言えます。

 

 しかしそうはいっても、別の登場人物である中田の友情や、宇津井の援助した女性とのやり取りなどを考えると、いわゆる人間ドラマ的な部分の印象が強く残るようになっています。後で示すことになりますが、この人情的な側面が押し出されると、たとえば同様の闇金ドラマである「ミナミの帝王」と差分がなくなってくる、つまりはドラマとしての目新しさが目減りしていくことになってしまうということが挙げられます。

 

 まあ何にせよこういう細かい点を省いて、ウシジマくんが一般的に「身近で」だからこそ「不条理」かつ「グロテスクである」内容だと受け止められる理由をここでは考えたいと思います。

 

1)カウカウファイナンス周辺の人物が「リバタリアン」的であること

 基本的にウシジマ含むカウカウファイナンス周辺の人物は「リバタリアン(より正確にはJ.Sミルの危害原理を発展させたもの)」の考え方をベースに行動している。「リバタリアン」とは政治思想に関連する概念であり、端的に他人の行動について危害を加えない限り何をやっても問題ない、という自由意志に関する考え方を指す。それゆえ国家の介入を抑制する時に用いられる概念として理解されているが、厳密にはミルの危害原理が下敷きになったものである。したがって、ここからは近代的と言われる、より一般的なリベラリズムの責任概念が容易に導出されることになる。

 例えば、ウシジマは頻繁に冷徹な拝金主義的発言の後に、「他人に迷惑をかけるなら」あるいは「責任を採るには」等という至極あたりまえの言葉を発する。この発言は、単純に「リバタリアン」であるとは言えないものの、かなり似通った構えである。なぜなら、金貸し業を行う債務者に対して、異常な利率を設定しつつも、約束(厳密には契約)を必ず守ることを強要する。特に金貸しという性格上、この構えはあたりまえのことだが、闇金という法外な行いが逆説的に「他人に迷惑をかけるな」というメッセージを主張することになっている。そしてウシジマのこの構えが債務者に対する疑義を同時に生み出す。つまり、債務者を信用することが危険なことである、とウシジマは言明し、債務者であれ「他人に迷惑をかけることを良くないこと」であるという先の構えを繰り返すこととなるのである。根本的に言えば、これは先に述べた「危害原理」という思想を体現している。法秩序等を厳守する必要性を強調せざるを得ないリベラルな立場の主張とは、闇金という特性上、質的に区別されなければならない。だからリベラルな立場とは違い、ここではリバタリアン〈的〉と形容しなければならないのだ。そしてカウカウファイナンス全体が、ウシジマのこの態度を採っているのである。

 しかしウシジマをはじめとして、もちろん闇金という法外な行為に関わっている時点で危害原理等の一般的な思想とはかけ離れている点も多々ある。だからこそ、高田が隼人に対して「闇金だけど~」という注釈を加えたり、ウシジマ本人が闇金業を無理やりにでも拝金主義的な側面から正当化する必要があったのである。したがってありがちな「リバタリアン」ではないことを踏まえれば、中途半端な点が多い。したがって「リバタリアン」<的>なのである。

 

2)人情に傾斜しがちな部分

 翻って、もうひとつ(あるいはリバタリアンの領域以外のほぼ全て)、ある意味で普通の人情とでも呼べるものが存在してしまっている。だがこれも先の点と同じく中途半端だ。先に示した闇金という法外な行為に関係して、カウカウファイナンスには「人情(あるいは共感・シンパシー)」のような行動原理が存在する。まずカウカウファイナンス内での人情、そして債務者への人情である。前者については、言うまでもなく普通の企業体と似通った社員への待遇が存在していることに見て取れるだろう。この点は置いておくとして、後者の債務者についてはどうだろうか。

 このドラマでは、闇金という特性上、確かに債務者への暴力が多々描かれている。しかし、この暴力の中で殊、ウシジマは「債務者がどれほど取り立てに耐えることができ、返済能力があるか」というある意味で家族内で親が子を見守るようなパターナルな視線を看取している。当然のごとく、これは闇金業の一環として取り立てている行為であるのは間違いない。だが、この行為自体が、親が子供を説教し、社会の常識を教化していく過程に酷似している。そして債務者から親へ向けられる視線を受け取ることによって、ウシジマらはこの人情とでも呼べる行動を繰り返すことになる。より具体的には、ウシジマが債務者でる風俗嬢に「やりたいことが別にあるから風俗をやるんだろう?」という確認を採るようにしていることだ。これは集金するための手段(債務者の把握と管理)であると同時に、親子関係のアナロジーを形作っている。それゆえ、取り立てと同時に債務者への教育が成立してしまっている。

 

■ドラマ「ウシジマくん」には大雑把にいって、以上の二点における葛藤が問題になっている。ここで同様のカテゴリである闇金ドラマ、「ミナミの帝王」とその物語構成を比較してみよう。こちらはVシネマであることが多いが、代表的な闇金ドラマであるといってよい。最終的に、お金が工面できなくなった債務者に対して、主人公の竹内力扮する萬田銀次が正義の基準を用いて処遇し、救済していくという物語の流れが基本だ。債務者は、萬田金融以外の暴力団に恫喝・恐喝を加えられ、萬田が全面的に保護していくという流れである。

さて、このように「ミナミの帝王」では端的に人情をベースにした人間ドラマとしての描写が優先され、それ自体が物語のテーマにもなっている。言い換えると、闇金という法外な行為に関する出来事を対象化しているがゆえに、むしろ逆説的にそういった人情に関して、直接債務者の救済がテーマ足りうるのである。ここには債務者が必ず救済されるという予定調和的な帰結が期待され、視聴者は安心して萬田銀次を信頼することができる。なぜならほかの暴力団が明らかに、そして端的に悪として対象化され、この悪を打つことができるのは、<悪の中の正義>である萬田銀次である、ということだからである。

 

■「ミナミの帝王」が人情ベースの物語を構成するのに対し、「闇金ウシジマくん」は明確に物語の中に予定調和を持ち込むことなく、常に先に示した二点の間を行き来する。つまり、「リバタリアン的であること」と「人情に傾斜しがちであること」のアンビバレントな極点が、闇金業のような法外な行為の中に埋め込まれているがゆえに、視聴者は見ていて安定した視点を採ることが難しいのである。実際、ウシジマ自身もこの葛藤を繰り返し経験することとなる。象徴的なのは、ドラマでしか登場しない片瀬那奈扮する千秋だ。千秋は表面的に人情ベースで行動する唯一のキャラクターなのだが、彼女の言動に付き合うウシジマは、表面的でないにせよ、常に債務者に対して人情を重んじる。ウシジマは自らの信念を突き通すこと(すなわち拝金的に債務者を扱うこと)の中に、千秋の人情の正しさうを見ることになる。例えば小堀が板橋に会いに来たこと等々。

 

■このようにして、ドラマ「闇金ウシジマくん」はアンビバレントかつ共に中途半端な二つの行動原理の間を揺れ動くがゆえに、視聴者は<不条理さ>をより身近に感じることとなるのである。それは、債務者が最終的に救われることがないにもかかわらず、しかし救われるかもしれないという期待を視聴者が抱ける状況を映し出し、さらに人情としての情景とリバタリアン的行動原理というかけ離れた2つの極点を実際作中でウシジマ達が抱くことを表現することによって。