touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】アドベンチャーランドへようこそ

    

≪あらすじ≫

 大学院進学を目指していたジェイムズは父親の給料が減らされ、学費の一部を工面する必要が出てきたため、アルバイトを探していた。 やっと見つかったバイトは、“アドベンチャーランド”という地元の寂れた遊園地で、労働時間が長い割に賃金は安く、おまけにバイト仲間も一風変わった人物ばかりだった。 しかし、彼はそこで働いていたエムという女性と恋に落ちた。

 

 「アドベンチャーランドへようこそ」は基本的にマイナーな80年代アメリカの恋愛(青春)映画として位置づけられている。監督を含め、そこまで「真面目に」作られた映画ではないと考えるのが妥当だ。また、ふつうに考えて作品自体は、ジャンルとしては恋愛モノに位置づけられるだろう。
 ただし本作は、凡庸な体裁をとりつつも、作品として極めて象徴的で空虚なモチーフが見え隠れする。それは端的に言って、この時代の特殊アメリカ的な文脈が空虚に空振りするさまが描かれている点だ。ピッツバーグという郊外を舞台としていることも、大いに関わってくる。この作品が虚しい空振りを表現することが出来たのは、ポップな80年代USロックサウンドを背景にしつつ、「本来は希望に満ち溢れていた(はずの)時代の恋愛映画」というベーシックな体裁を採っていたからだとも言える。だからこそ、どうしようもない過剰な消費を典型とした、近代の頽廃に纏わるグロテスクさがはっきりと映えるような作品に仕上がっているが、それは例えばおおざっぱに以下の点を指摘できる。

 

近代的なものの輝きが失われていく描写のなかで、特に遊園地そのものとそこにいる人達のグロテスクとも言える時代的な頽落が描かれていること

 近代と呼ばれる時代の象徴の一つに、<過剰な消費>というものがある。消費は何も消費者が消費財を消費する、という行動にのみ限られるわけではない。<過剰な消費>はアミューズメントとしての娯楽的側面を含有する。遊園地というアミューズメントパークもその代表格だ。乱暴に言えば、不必要なものもそれだけで消費の対象となり、有形財のみが対象となるわけではなく、享楽を得ること自体が消費されることが常態化すること。例えばアミューズメントパークは、そうした消費を過剰に促す装置として機能することとなる。しかしながら、そもそもこうしたアミューズメントパークは人口増加に伴って郊外に建設されることもあったが、実際に定常的な人口増加が可能でない限り、そしてまたアミューズメントパークが目新しくなくなってくるにしたがって、資本が循環しなくなる。そう、郊外にあるアミューズメントパークのいく末を見事に表現しているのが、この「アドベンチャーランドへようこそ」の基本モチーフである。

 この映画では、まさにアメリカナイズされた、というかアメリカ本国の消費社会のなかで、少なくとも都会や都心では「ない」という消極的な定義から描かれる郊外が、実際どのような現状にあるのかという少なくとも80年代時点での、一種の危うさが前景化されている。消極的に描かれているというのは、都会の描写がエンディング付近にのみ登場するだけだからである。こうして舞台の中心は常に郊外であり、それゆえに郊外の中のコミュニケーションから投射された、あるいは想定された歪曲した都会像しか出てこないのである。

 こう言えるのは、アミューズメントパーク自体が、余暇と消費の空間として形成され、まさに日常生活から切り離された夢の世界として供用されていたことに関係する。アミューズメントパークは、そもそも日常から隔離された「夢の空間」としての性質を持つ。日常から隔離されている程度によって、それは純粋な楽しみを享受するための装置として用意され、日常生活の苦痛や困難を一時的に忘却することのできる時間を作り出す。だから、常々広告であれ消費者であれ、その空間が夢として形容されることが普通である。

 こうした夢の空間は、どうしても経済システムと結びつかざるを得ないがゆえに、それ単立の論理を行使することができない。施設は老朽化し、労働者は年をとる。人口の再生産が間に合わないことに違和感を抱きつつ、それでもそこに関係する当事者たちは、この空間が実は夢ではない、グロテスクな頽落した現実であることを体験せざるを得ない。そうした時期が、まさに特殊アメリカ的な80年代という時代のメルクマールなのである。本作では客層や労働者を含め、どこかイケてない雰囲気を醸し出し、そして煌びやかなはずのネオンは中途半端にぼやけている。そして主人公周辺のキャラクターも、どうしても郊外での生活を強いられた人々であった。のちに説明するコンネルもジョエルもどこかヤリキレナイ生活のなか、仕方なくアミューズメントパークに通うしかない。主人公にケチをつけるチンピラも、自身がこうした空虚な空間にいることに苛立ちを感じ、暴力的に振る舞う。

 つまり夢の空間というメタファーを通して、夢が夢では有り得ない、あるいは夢は郊外という厳しい現実の中で構成される、というグロテスクさを帯びていること。こうしたメタファーが、郊外の危うさそのものに関係的に提起されているのである。

 

そして/それでも郊外で生活するしかないというグロテスクさ

 また、ストーリーの最後には、主人公がNYに行くことになる。しかし他方で柔和で凡庸なメガネをかけたバイトの同僚ジョエルや、幼馴染のフリゴはアドベンチャーランド以外何も残っていない当の郊外に残ることになる。
 こうした主人公が特定の場所から巣立つという展開は、よくありがちなものだと思われるが、郊外をこうも消極的に描く本作では、少なくとも「都会に行ける人/そもそもいけない人」という強い社会的なものの格差が表面化する。例えばエンディング付近で、河川敷で彼ら地元に残る友人たちと花火をしている描写があるのだが、主人公は都会に出る、というポジティブな場面のはずなのに、旅立ちのよきシーンであるはずなのに、そうした郊外の空間が他の残る二人にはあまりにも虚しものとして響く。手持ち花火という、ある意味極めて非都会的な子供の玩具で旅立ちを祝うことに象徴されるかのように。

 つまり、少なくとも郊外の日常は結局何も変われない、そして主人公も郊外から立ち去るという方途以外に想像を働かせることができない、非常にグロテスクなさまが描かれていると見た方がよいのである。

■テーマ曲のグロテスクさ 

 ここに示したテーマについては、エンディングのINXSが歌う「Don't Change」によって象徴化される。このテーマ曲に関しては、複雑だが以下の二通りの意味を歌詞に見いだすことができる。

 

  1. おまえもおれも変わらないで、だから全てのものをそのままの輝きを残してくれ、という悲壮なメッセージ
  2. 何があっても日常は変わらないし変われないというグロテスクな現実を訴えるメッセージ

I'm standing here on the ground
The sky above won't fall down
See no evil in all direction
Resolution of happiness
Things have been dark
For too long

Don't change for you
Don't change a thing for me

I found a love I had lost
It was gone for too long
Hear no evil in all directions
Execution of bitterness
Message received loud and clear

Don't change for you
Don't change a thing for me

I'm standing here on the ground
The sky above won't fall down
See no evil in all directions
Resolution of happiness
Things have been dark for too long

Don't change for you
Don't change a thing for me

 1点目については、そもそも恋愛を対象とした歌詞の書き方なので、深読みすることは避けた方がいいかもしれない。ただし、2点目については、どうか。この文脈は「The sky above won't fall down See no evil in all direction」によって少しは妥当なものだと位置づけられるだろう。

 つまり作品を締めくくるエンディングで高らかに「空が落ちてくることなんかない、どんな道にも悪魔なんて見えないじゃないか」と言い放つのである。宗教的に世界(郊外)は救われることがないというメタファーである。こうした技巧は、この作品が、80年代アメリカ郊外が、もはや単純に自明な夢を前提とすることが出来なかった、あるいは、わざわざこの「夢を伴った現実が変わるわけないじゃないか」と、わざわざ言明する必要があるくらいに頽落しつつあったことを示しているのである。