touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】アメリカ・ヒーロー映画の変容

 今日はアメリカのヒーロー映画の問題を考えてみます。問題というのは、ヒーロー像そのものと彼らのヒロイズムの問題について、です。そしてヒーローの像がどのように変化しているのか、という点に加え、映画「スーパー!」の特異な点を示したいと思います。(といっても非常に適当な話ですが。

 

■典型的なアメリカンコミック的ヒーロー像について

 はじめに「アベンジャーズ」に象徴的なアメコミ的なヒーロー像を想定してみよう。ひとくちにアメコミと言えど、もちろん幾つかの異なった要素が散りばめられた作品群が存在するのだが、その中でもとりわけ最大公約数的な要素を以下のように共訳できるように思われる。

すなわち、

  1. ヒーロー属性として、弱さ/強さという基本コードを保有していること
  2. ヒーローそのもの、あるいは他の基本属性としての何らかの特殊能力があること
  3. ヒロインが存在し、場合によって彼女とは一定の恋愛関係にあること
  4. 明確な敵が存在し、それを打ち倒し、乗り越えるための作品として描かれること
  5. その悪の主張は根本的に破壊的であり、自明とされる社会秩序に対抗するように見えること

などである。

 

 さて以上のようなベーシックな作品設定の特徴は、作中で主人公が「弱さ/強さ」という行為の遂行に関するコードの変更を経ることが最も基本的な前提になっている。つまり、主人公がどういったかたちであれ、特定の部分的な弱さがあること、それを乗り越えて常に強くなっていくということ等の要件が満たされなければならない。と同時に、明確な敵を抹消する必要があり、基本的には何らかの大きな爆発が劇中でよく用いられることになる。こうして、ヒーローが<自明な正義>を体現することに視聴者が自己投影を図ることができるようになっており、またそれ自体がカタルシスの表出を可能にしている*1

 例えば、「アイアンマン」シリーズがこうした映画の典型だと思われる。この作品ではとりわけ女性関係に鈍感な主人公が装備品を自身で開発して戦う、という設定なのだが、まさに「敵を抹消すること」と「爆発を起こすこと」が結びついている。そしてこの主人公の装備している武器がギミックに凝っており、空中戦が可能であることを含め、特殊な能力を保有している。実際の作品の内容を確認してみよう。主人公は、軍事系企業のオーナーであり、いわゆる人気者の立ち位置にいる。それゆえ、ひょんなことから敵対する人物が多々出てくる。この敵を倒し続けることこそが、主人公に求められる必須条件である。こうして敵⇒敵⇒・・・というプロセスを展開することによって、物語・ストーリーを変更して続けていくことが可能なのだ。

  このような映画作品を一般的なアメリカンヒーロー作品である。とりわけ敵が次々に現れ、その敵の強さに合わせて主人公の強さも比例していくようなものが、ここでの「一般的」な作品であるとしよう。この場合のヒロイズム、すなわちヒーローとしての戦う動機は、少なくとも端的には「悪」を徹底して打つ・そのために強靭になる、という2つの要件に求められる。この部分で注目しておかなければならないのが、既に「悪」を打つという時点で、悪それ自体が同定可能であるとされていることだ。もちろん、悪の言う言い分があまりにもリアリティのないものであってはならないのだが。

 そして、自身が強く生きなければならないという前提はとりわけ疑われることはない。これらの要件を求めることが、何にせよ決断を有する事項であることを意識する場合もあるものの、「漸次的によき世界に向かう」ことを疑えないことを意味する*2

 

■「ダークナイト」「キック・アス」に見るヒーロー像、アメコミ的ヒーロー像から遠く離れて

 以上の「よき世界」への接近可能性は、少なくとも一般的な規範アニメや映画に関しては、担保されなければならない。なぜなら、複雑な話=未規定な話としてストーリーを置く場合、世界の規定可能な意味を迂回して、わざわざ作品的な特徴に留保をつけなければならないからである。このように複雑な作品構図を採る限り、商業的に成立するのは難しいように思われる。

 

      

 しかしながら、このような作品に近づくストーリーを持つ映画がいくつか出てきた。典型的なものが、リメイクされた「ダークナイト」トリロジー作品である。この作品は基本的に、<正義>と<悪>の区別が自明ではなくなってきていることがテーマ化されている。付け加えれば、この区別の相互のオートロジー、つまりは正義は常に悪として/悪は常に正義として、社会の中で位置づけ直される可能性がテーマ化されている。正しい行動を貫徹することが、常に悪として位置づけられる可能性は、まさに正義の一意性の欠落である。後味が悪いと一部で言われる所以もここにある。

  そしてこのことは、自明な「よき世界」へ向かうことが何を意味しているのかを問い直す事となる。

 

 そして「キック・アス」。この作品は基本的にブラック・コメディを志向する部分があるが、素人が素人なりの装備のみで悪を打つという構図をとっている。例えば素人が作った自作のスーツ。シンボリックかつ戦闘用に高度化されたスーツ、たとえば「スパイダーマン」作品にみられるような、スーツに<キャラクターらしさ>を結びつける意味での完成度合は非常に低い。また、ここでは正義は自明化されたものとして取り扱われているものの、主人公が至って強くならないことが挙げられる*3。そして特殊能力や超能力を使うキャラクターがおらず、基本的には普通の武装化を施したキャラクターが肉弾戦によって悪を駆逐していく。この過程は、「ダークナイト」のようなシリアスな正義に係る問題や、行為の正当性に係る懐疑などはほとんど存在しない。

 しかしながら、これら二つの作品に象徴的なのは、<ヒーローとして>従来前提にされていた幾つかの条件を、意図的にズラしているということである。二つの作品の特徴は全く違うものの、ある意味このような物語に関する条件の史的な特異点において、類似する。

 

■「スーパー!」に見る倒錯したヒーロー像、ヒーローにおける正統性の極致

 そして「キック・アス」のミクロな肉弾戦に尾を引きつつも、「ダークナイト」の問題設定を倒錯させた作品が「スーパー!」である。ここまでくると、バットマン的なもの・キックアス的なものが妙な形で総合され、見るも無残な作品構図をとる。

 主人公は、容姿が整っておらず、妻を略奪された中途半端なコックである。彼は常に妻を愛してきたと考えており、同じレベルでセックスは愛に裏打ちされていなければいけないというような、極めてまじめな男性だ。そんな彼は、ある時妻を略奪され、同時に「自身と神の関係」において啓示を受け、ヒーローになることを決意する。ここでのポイントは、主人公が単純な武器(鈍器など)においてのみ強化されたヒーローを望み、当然であると言われれば当たり前なのだが、特殊能力の開発は一切行わない。この点、先の「キック・アス」的なヒーローに似る。しかし他方で、敵(=悪)だと認定していくプロセスはいかにも曖昧なもので、単に店先で割り込みをした者に対して撲殺するレベルの傷害を負わせることもある。ここでは既に、正義が端的に「自身の信じるようなものでしかない」あるいは「自身の快楽原則に反するものを排撃すること」としてイメージされている(彼がヒーローとして自身を位置づける限り、後者のような身勝手な行動も、倒錯した正義となる)。すなわち正義の不可能性を描いた「ダークナイト」のモチーフが、倒錯した状態で登場してくる。

 

■「スーパー!」はなぜ特異だと言えるのか

  以下では、先の二つの映画の特徴とは異なる「スーパー!」の特異な点を羅列しよう。

   まず、「スーパー!」が「キック・アス」的なコメディ要素をすべて排したような作品であると言いうる点がある。そして、ヒットガールに象徴的であったように、人間離れした能力を発揮する登場人物は皆無である点。先の通り他の映画と比べて、ヒットガールも最低限の肉体能力しか持ち得ていなかったが、それ以上に凡人と同じくらいしか能力を持っておらず、主人公は極めて単純な暴力をふるっていく。次いで「相棒(あるいはヒロイン)」の少女が死んでしまうこと、しかもそれを「犠牲」だったと簡単に、そして素直に受け止める点。そして最後に、正義が確かに何かもわからず、しかしそれゆえに試すという意味で殺人を犯すという点である。

 また、「ダークナイト」的な要素を倒錯させた点。妻のためには、暴力が必要だったということを、これが極めて個人的な問題にもかかわらず、一切問い返すことなく(問題化することなく)、主人公は受け止めていく。そし主人公が行う殺人は、ある種の決断主義的な様相を帯びている。決断主義とは、そもそも政治学者K.シュミットの用いた「決断」概念の転用だ。簡単に言えば、一つの決断が、無根拠であっても、必ず行われなければならないさまをいう。「ダークナイト」でのバットマンは、街の大半の人々に受け入れられなくても、一つの必要悪になることを決断した。だが、「スーパー!」では、何の変哲もなく自分のために殺人を行ってしまっている。自分のために、というのは、妻がさらわれたことの復讐を、<妻のためではなく自身のアイデンティティのために>行ってしまうという倒錯である。そこでは、他人に迷惑をかけるな(=妻を誘拐するな)、という近代社会的な公共性の秩序をイメージしているように見えるが、実際それを行使することこそ排除の論理を内包していることに、盲目的で倒錯した決断主義が見え隠れするのである。

  以上のように考える場合、剥き出しの正義は純粋な暴力に転化し、そしてそれゆえ常に正義を行使することは決断主義としてふるまわざるを得ないことが問題になるだろう。しかしこの問題をより社会学的な視野においてみてみよう。すなわち、この「スーパー!」に関しては作品水準において、「ダークナイト」同様、正義の自明性が対象になっていると同時に、個人の体現するべき倫理が如何に脆弱で不安定であるかが対象になっている。大文字の正義は、単なる個人の思い込み=個人の倫理でしかないがゆえに、そのなかでどのような生き方をすべきなのかを考えざるを得ないことが、したがって「スーパー!」の提示したヒーローにおける課題である。

 それはなぜか。「ダークナイト」の問題設定は、街全体を救済することが正義の問題として考えられた。すなわち政治的次元である。しかし「スーパー!」はあくまで個人の近接的な問題のみを扱ったものであり、その中でも救済されるのはあくまで妻に見えて、自分自身であった。より極端に言えば、自分が救われたいというエゴで暴発した正義のヒーローであるからだ。それは自分自身の周辺環境をコントロールできない中年男性が、あたかもよくあるライフステージ的な問題に耐えられず、一般的なこの問題を特殊な問題と考えてしまい、神による啓示を妄想してしまったということである。主人公はそのことによる不備を最終的に前提としてしまい、周辺の死をあたかも正当化しうるものだと考えてしまう。

 そして本作からは、このような状況に陥ってしまったパラドクスにある彼への痛烈な批判を読みとれる作品なのだ。だからこそ、見ていて「グロテスクだ」と思う以上に、それ以上に主人公の振る舞いが後味の悪いものに見えてしまうという作品である。理由は先に述べたとおり、正義が個人の倫理と化すことにある。そしてこの点においてのみ、「スーパー!」はこれまでのヒーロー映画と決別することとなるのである。

*1:ただし、こうしたヒーローに<正義>に纏わる葛藤が全くないというわけではない。

*2:ただしこのモチーフは簡単にカタルシスの表出という爽快感だけに傾斜したものや、殺傷がゲームのように映ることを強調したものなど多数に分岐する。

*3:キック・アス2ではあからさまに身体能力が上がっているが。