touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】ポー川のひかり

 

 

 

【あらすじ】

夏季休業中のボローニャ大学で、大量の古文書が釘で磔刑のようにされるという事件が発生した。やがて将来有望な哲学科の教授が容疑者として浮かび上がってくる。だが、その教授はすでに姿を消していた。

 

1.なにゆえに、哲学教授は反社会的な態度を採ったのか

 物語の始め、若年のボローニャ大学哲学教授は、「実存主義者としてのヤスパース」の言葉を引用しつつ、現代の社会的な欺瞞を月並みに批判する。いわゆる近代社会に内包された、疎外・格差・搾取等をテーマ化した社会的な問題である。こうした問いに対する批判の形式自体は、そもそも大したものではない。例えばよく思想・哲学の領域で持ち挙げられる資本主義批判や管理社会批判等々。

 そしてこうした諸問題を基調としながら提示される処方のひとつに、科学一般へのアンチテーゼとして定位される、回帰・救済としての「宗教」なるものの存在意義がある(とされることが比較的一般的である)。しかし宗教が行おうとする回帰としての世界の救済は、どのみち個人的な救済に採って替わられるというのが、ここでの主人公の意見であり、この宗教批判を含む論理回路によって実存主義的な考え方へと到達する。

 以上を踏まえた近代への批判と、近代批判を経由した宗教回帰に対する非難の矛先が、同時にボローニャ大学というアカデミズムの領域にも向けられている。そのうち対象となったのは、宗教、殊カトリック教会に関する古文書であった。今になって古い文献を参照することの欺瞞、何の意味を成すこともできない、あるいは個人しか救済することができないことを隠蔽する「テキスト」自体に対するフェティシズム。結局、何も救うことができなかった古くて・新しい欺瞞を、そしてこの宗教と神という欺瞞を異化させるために、アカデミズム自体の批判と共に、この哲学教師は「今ある日常の実践」の世界へと降り立つことにするのである。それがポー川での実践である。

 彼が実践しようとしたのは、ある意味で反社会的な事柄が実は極めて重要であること、そしてそのこと自体が、人々の生活に幸福を与えるということの確認だった。だから、宗教的な信仰や、資本主義的な富が与えられなくても、そういった要因以上に、人間関係がもたらす幸福の優位性を説く。例えば、「本を読むよりもワインを飲む友人がいることの方がどれほど幸せだろうか」というセリフが挿入される部分。これは明らかに、信仰を持たないものを排除しがちなキリスト教のイメージを批判しており、社会の中で生きるのであれば当然のごとく他人と関係を重視して何が悪いのか、という含意がある。

 

2.キリスト者としての大学教授

 しかしこうした実践の中で、皮肉にも主人公は村人たちに「キリストさん」と呼ばれることになる。容姿がキリストらしいということも相まっているのだが、それ以上に村民たちの≪日々の≫悩みや行き詰まりに対し、救済としての説教を行っていくことがそう呼ばれる最も大きな理由となっていく。こうした救済の前提として、一つ次の事柄が指摘できる。それは、あくまでも「キリストさん」が血縁関係も地縁関係も持たない無関係な住民たちに対して、隣人愛を以って接することである。

 こうした血縁関係を欠く人間関係に入り込み、あくまでも実践的に問題の解決を促そうとする哲学教授。彼は他人を救おうとすることを、いつしか望んでしまい、サルトル的な実存主義の考え方を踏襲し、実践する。そしてそれが宗教とは全く違う実践であると信じて。

 「その平和は外からやってくるものではない、みんなで作るものだ。」という彼の言葉は、やはり宗教的なものの倒錯を否定することの上に成り立つ、極めて世俗的なものになる。人定的に、自らの平和を作っていくという前提がそこにはある。というのも、平和を神が作らないことを逆説的に主張しているわけだ。しかし、本人がこうした反宗教的な言葉を唱えながらも、村人からいつの間にかカリスマ性を持った、宗教的な象徴であるキリストに準えられることとなる。

 

3.キリスト者としての大学教授は何をしていたと言えるのか

 しかし、である。冷静に考えてみると、この哲学教授が来る以前から、この町の住民たちは地縁関係を築き、相互に助け合える扶助関係を十分に築いていた。そしてその関係は十分に住民達にとって、自明なものとして考えられていた。であれば、哲学教授が救済しようとした住民たちは、既に平和や幸福を実践していたと言える。

 それでは哲学教師は何を行っていたのだろうか。この問いは、物語の終盤に明らかになる。この哲学教授は、古文書を破棄した罪で拘束されることとなる。村から一度離れることになり、村人は哲学教授が返ってくることを待ちわびる。そしてこの教授が返ってくるタイミングで、村の一本道に幾つもの明かりを灯すのである。この明かりこそが村人たちの地縁関係の象徴であると言わんばかりに。

 だが、結局この哲学教授は帰ってくることはなかった。ここでは放浪者として隣人愛を実践するという意味で、キリストとのアナロジーが強烈に打ち出されている。そしてこの映画では、キリスト的な隣人愛の実践が、本人の意図を倒錯させようとも、村人たちの自明であり気づきえなかった平和の実践を呼び起こすことを示唆しているのである。最終的には帰ってこない、放浪者としての実践が、村人たちの実践を明確にするということを以って。