touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】ブギーナイツ

 

 本作ブギーナイツは70年代後半から80年代初頭にかけて、ポルノ映画業界の興隆と衰退を描いている映画です。で、映画自体のポイントは、視聴者にとって複数用意されています。と言っても、股間をおっ立てろ、がキャッチフレーズになっている割とふざけた映画なので、以下の感想は程度の問題ですが、曲解になっておりますので悪しからず。

       
BOOGIE NIGHTS - Trailer (1997) - YouTube

 

【あらすじ】

ナイトクラブでアルバイトをしていたエディは、ある日、ポルノ映画の監督であるジャックにその巨根を見込まれスカウトされる。ポルノ業界に飛び込んだエディは「ダーク・ディグラー」という名前を与えられ、出演作品はヒット、ポルノ映画の賞も受賞するなどしてスターダムにのし上がっていく。名声を手にし、贅沢な生活を楽しむエディだが、次第にコカインやメタンフェタミンといった麻薬に手を出すようになる。やがて時代の波で彼らにも暗雲が立ち込め、監督との確執や転落という憂き目にも遭う。


1.ポルノ業界の興隆と衰退

 とりわけ、もっとも印象的なテーマの一つは、ポルノの映画監督のオッサンがポルノ作品に対して、一般的な水準で物語性を重要視していて、AVを単純にオナニーの道具としてだけ用いることを忌避していることではないでしょうか。所謂、芸術としてのポルノ映画を推奨しているということですね。現代的な視点で捉えるとき、これはきわめてふつうのことでもあるんですけど。

 ある意味で、ポルノを一般的な映画と同じ社会的評価が為されるべきであるというこういった前提は、当時こうした業界に棲みつく人たちのアイロニーとして機能しているということでもあります。ある職業領域に所属する階層の人たちが、別のハイブロウな階層をレファレンスすることで、自らを正当化しようとするためのアイロニー。ここでは高踏芸術がレファレンスされていると思います。

    

 

 そしてまた、このポルノ映画監督のもとに、80年代からはVHSの時代が来るので一緒にビジネスしようぜ、というオッサンが現れます。ここでこの象徴的なテーマが際立つのですが、このオッサンに対し、ポルノ作品の物語性を強調して自己正当化を図る監督のオッサンは、VHSはあくまで物語を消費するために作られるはずであり、映画を映画として、少なくとスクリーン上での視覚体験を減退させる世俗的なものだ、と断罪します。同時にポルノ映画はプロの俳優がこなすものであって、<素人>が出演するものであってはならない、と言い張ります。<素人>もの、というジャンルが確立していない頃の世界観ですね。

 これらの拒絶は、やはりアイロニーとしてしか機能しない意地なんでしょうが、やはり当時そうした熱気があったらしいというのがポイントだと思います。でもこうした空気感の中で、いくらそうした言明をしようとしても、どうにもならない周辺のより大きな社会的ネットワークというものがあり、それとともに当業界も変わっていかなければならないことに皆気づきだします。これは、終盤で監督が一度否定していたはずの<素人>ものの作品を企画しようとしていることに象徴的でした。自ら強く主張していた<素人>ものに対する拒否は、あっけなく、ポルノ産業に対する非難や産業的な意味での衰退を前に頓挫せざるを得ないものになってしまったということでしょう。ポルノに対する信念と意志が、産業特有の状況からいつの間にか屈折してしまうと言うこと。でも逆に言うと、「このようにして」ニッチなポルノ産業に係る信念や意志は屈折しながらも生きながらえて行くようなものだと言うことが出来ます。

 

 

2.ポルノ関係者のそれから

 そしてもう一つのポイント、ポルノ撮影関係者のネットワークについて。このネットワークには、エディ(主人公)、ローラーガール等の家庭から排除された若年層を、あたかも両親のような眼差しをもって、これらの集団が社会関係を形作っているという特異な状況があります。物語中盤では、覚せい剤の利用が常態化し、ほとんどの登場人物の低落が印象的であるものの、終盤では一度崩れた関係者同士の関係が、やはり同じ共有前提を梃子に戻ってくるんですね。中でもジュリアン・ムーア扮するアンバーが本当の息子の親権や教育権に関する鑑別の際に極めて精神的に不安定になっているところ、子どもの喪失を経験しながら生じた生活上の空洞を、他人であるはずのエディやローラーガールで埋めようとしている事態も、極めて象徴的に描かれています。ふつう、こうした代替関係で自身の心的な安心を得ようとするのは、極度の依存関係を作ってしまいそうに思われます。でも、もはやローラーガールとアンバーが覚せい剤を吸引しながら、親子関係を結ぶことを約束するシーンは、単純な依存関係には見られない狂気にさえ見えてしまいます。この手の狂気は持続的でないと言う意味で脆く、儚いものとして表象されることが多くあります。ふつうのドラッグムービーなどもそうだと言えるし、これはそうした刹那的な状況こそが美しくある、という美学的な考え方にありがちなものです。


 こうして傍から見ると、極めて不安定な関係に見える、ポルノ関係者たちの関係のネットワーク。本当の親子でもなく、単にポルノ作品を撮影するためだけに集まり、その度にパーティを開いてつながっている程度の関係。しかしにもかかわらず、「それ以外ここ以外に戻ってくる場所がない」そんな人たちの集まり。そうした脆弱な関係こそがしかしそうした関係しか築けないがゆえに、逆説的に唯一性を持った関係として、そしてその強固さのあり方を照射しているような、そんなところに焦点を当てた映画な気がしてならないわけです。