touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

ここ最近読んだ本

 折角ブログを始めてしまったので、一週間に一回は更新していきたいと思っていましたが、さっそく初週で挫折するところでした。

 さてところで、この度社会人として働くことになった折に、まず明らかに読書量が減ることを見越していましたが、しかし意外とふつうに読める程度には読めるということが分かってきました。ということで、とりあえずまずはここ何日かで読み通した本のうち、記憶に残っている以下のものを。

 

ゴフマン世界の再構成―共在の技法と秩序 (Sekaishiso seminar)

ゴフマン世界の再構成―共在の技法と秩序 (Sekaishiso seminar)

 

 

 この世界思想ゼミナール、出版年はかなり前になりますが、意外とサブタイトルが惹起するほどなにか恐ろしい論考は特にありません。しかしこのことと表裏一体に、理論社会学の中でのゴフマン社会学の位置づけ自体を目論むようなものではなく、簡単なゴフマン紹介に留まる著作で、(その意味で論考の学問的意義は)あまり満足いくものではありません。古いので仕方ありませんが、なかでも思いっきりナンセンスな論考があったので、ここではぜひともこれを採りあげようと思います。テーマが恋愛ということでおもしろそうだったので。

 

5章 恋愛と社会組織―親密化の技法と経験

 (タイトルに対するツッコミはさておき)内容を要約すれば以下のようなものになります。

・恋愛関係に陥る場合、当事者は恋愛のフレイム(=枠組み)によって日々の事象や物事を経験するということ。

・恋愛関係のゲームを実際にプレイするためには、ゲーム参加者として少なからず有能であること。

・恋愛関係を親密化しようとする諸所の振舞は、互いにとって自己のテリトリーの侵害を意味するということ。

またこの侵害は互いに感嘆の感情や希望を生むとともに、疑念や「疑いの感情」をも生むこと。

・このうち、「疑いの感情」は恋愛関係のフレイムによる経験の脆弱さを象徴すると同時に、まさにこの脆弱さによって当事者は恋愛関係によりいっそう強く拘束されること。

・以上のように恋愛関係に係るフレイムは、脆弱な経験を生むにも拘らず恋愛関係において一定の参加条件を整え、当事者に対する(そのような経験を形作る)制度的な原則は保持し続ける、ということ。

 

 さて、この内容、言わんとしていることは理解できなくもないではないですが。ただし単純に次の二点に関しては、より詳しく考えても良いかと思います。まず1)というかどうして恋愛「と」社会組織なんでしょうか。論考のなかでは、恋愛「と」社会組織にかんして一向に論じられる気配がありません。ですので、恋愛と社会組織の概念がそれぞれどのような位置づけを与えられているのかも不明なままです。そしてまた、もう一つ大きな問題だと思うのが2)このような(社会学的な)記述を行ったとして、日常言語を用いた場合の議論の帰結と何か違いがあるのかどうか、ということ。つまり学問の記述特性を踏まえた、積極的な内容が導かれているのかどうかということ*1

 

 まず1)に関しては、該当する直接の内容は下記のものしかないように思えます。

「…恋愛がカップルでない男女の出会いとカップル化を社会的に促進するうえで重大な役割をはたしていること、つまりは<社会のネットワークの形成に寄与している>ことは明らかである。」p150-151

「恋愛カップル関係の形成は、恋愛者個人の関心事であると同時に、成員の組織化を求める社会の関心事である。」p151

  おそらくこの書き手の方は、恋愛関係に付きまとうしごく一般的な感情や感覚が、例え該当する関係を破滅に追いやるほどのものであったにせよ、まさにそういった恋愛の疑いに関するスタンダードな感情が、それゆえ当事者間の関係を組織化する、ということが言いたいのでしょう。

 ですが一般的に、相互作用関係の「組織化」とは言えますが、相互作用そのものが「社会組織」と呼べるかどうか、ということは社会学の中で特に強いコンセンサスがあるようには思えません。むしろ常に「組織と相互作用」の関係が問題として採りあげられるほうが多いと思います*2。よってこの書き手の方が何故、このようなタイトルを採択したかということは、おそらくゴフマン本人が組織を射程に相互作用論を展開していたということを紹介したかったからでしょう。しかしにしても、理論的な水準で話を展開したいなら、粗雑に恋愛などを語って頂きたくないものです。

 もし仮に何か積極的な案を挙げるとすれば、まずこの「恋愛という相互作用」が、どのように「社会組織」のような極めて形式的なコミュニケーションの束と比較可能かということが学問的な問いであると思います。この点を踏まえなければ、恋愛が組織「的」であるのかどうか一切不明なまま、何か背景に確固たる行為類型あるいは制度が想定できる、という従来の曖昧な表現のもとに同じ論法が使われていくだけで何ら適当な学的反省が行われないからです。

 次に2)に関しては、これまた単純に、高尚な社会学的概念を用いて事象-事態を記述することに対する意義がほとんど見出されないという問題です。なぜかと言えば、ここで言われている内容は、特にゴフマンの概念を用いるまでもなく、そして恋愛経験が比較的少なくとも、ある程度「ふつうに」分かってしまう話だからです。例えば、恋愛は恋愛特有の経験を生むし(当たり前)、恋愛をするには一定のスキルが必要であるし(当たり前)、相手に疑いの感情を持てば持つほど、相手のことが気になるし(当たり前)、というような恐ろしく「ふつうに」分かってしまう話ばかりです。

 ですので、もし明確に理論的な記述を日常言語と区別したいなら(ここには新たに社会の自己記述の問題や構築主義のプログラムが含まれていますが)、少なくとも「どの部分領域が日常言語では語りえないか(あるいは内容的に帰結されないか)」を考えるべきで、次に社会学的な記述によってどの程度の認識利得が得られる領域なのかを考えるべきだと思います。

 最後に日常感覚的に推論すると、おそらく恋愛に係る領域(に関する学的記述)というのは、特に書き手の恋愛経験に関わるのだなということでした。ということで、幾らかこうダメダメな雰囲気が漂っていますが、とはいえゴフマンの雰囲気を掴むには良い論考もいくつかありますので、いつかそちらも感想させていただきます。

 

*1:この点に関しては、何が学問的な記述の条件であるか、という問いが一応は可能です。つまり、どの程度・どの点について、「日常的に用いられる概念や会話」と「学問的な概念や記述」に違いがあるか、という問いです。また、この問いを極端に展開すれば、日常言語と学問的な記述の差異をそもそも考えることができるのか、というよくある問いに変形しますが、しかしこれは次の点でナンセンスです。

 まず、世間一般の常識からして、俗に言われる「学問」は、明らかに日常言語からかけ離れており、しかしそうでなくとも科学の領域が用いる視点への信頼は強い、といえます。このように学問に用いられる概念は明らかに日常言語の中でも変種であり、したがって学問に対する信頼は、少なくとも何かを明らかにすることや解決することによる科学の営みによって保障されています。

 今見たような「日常言語/科学の学問的記述」の差異を認めない極端な立場を採る諸説に対しては、以下のような反論が可能です。つまり、ある一定の通俗的見方に反して、学問的な記述の内容(とその帰結)が日常言語における議論の内容(とその帰結)において「同等」あるいは「違いがない」という≪主張そのもの≫が日常言語との帰結の落差を既に引き起こしてしまうからです。したがって、この極端な諸説はナンセンスだと思われます。ゆえに、この区別の程度を考察したり、区別の成り立ちそのものを問い直す、例えばどのように区が立ち上がって来るかなどを考察する事の方が意義があると言えます

*2:とある社会学者が言うには、「社会」は三人から始まるということですしね。