touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】「世界でいちばん不運で幸せな私」を見て

 

 一か月あけてしまいましたが、おもしろい映画を見たので感想を書きたいと思います。

今回見たのは、タイトルの通り「世界でいちばん不運で幸せな私」。

 

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 この映画のメインテーマあるいは根底にある象徴的なモチーフは、「ゲームとしての」恋愛だととりあえず言えると思います。さて、大げさな緒言はさておき、大雑把なあらすじは以下のようなもの。

母親が重い病にかかっているジュリアンと、ポーランド移民でいじめられっ子のソフィーは二人だけのゲームを始める。相手に条件を出し、出された条件には絶対にのらなくてはいけないゲーム。校長の前でお漏らしをしたり、ソフィーの姉の結婚式を台無しにしたり、ジュリアンが母親から貰った大切な缶を賭けて二人のゲームは大人になるまで続く。大人になり、二人の友情は愛情に変わるが、ゲームのせいでお互いの本当の気持ちだけは伝えられないままでいた。[wikipedia]

 主人公のジュリアンとヒロインのソフィー。上の通りソフィーは学校で苛められているのですが、ジュリアンが一度ソフィーを助けたことをきっかけに、二人だけの「缶を交換する」ことによるゲームが始まります。このゲームは、どちらかが相手に指名した内容の悪戯を行い、言われた悪戯が終わったらブリキの缶を相手に渡し、新たな悪戯内容を伝えるようになっています。
 この明示的なゲームは幼少期を超えて、思春期まで続きますが、しかしお互いが大人になるにつれ、この悪戯の契約ゲームを続けて日常生活に支障を来すことに疑問を感じるようになり、ひょんなことからゲームに十数年のブランクをあけることになります。こうしてブランクがあったにもかかわらず、成人となった後もお互いゲームの存在を忘れることができず、そしてまた一方があきらめようとしても他方があきらめることができず、長期間にわたってこの悪戯の指示は続くことになってしまいます。
 最終的には、この悪戯ゲームに則ることで、単にゲームであった関係から恋愛にまで発展し(ていることにお互いが気づき)、悪戯ゲームの一環という名目でありながらも、ふたりでコンクリートに一緒に埋まること、つまり死を共有することを選択します。そしてこのことは、後に述べるように恋愛が非社会的でありうるということを表象しています。

 というような内容の話なのですが、フランス本国ではかなり人気があった模様です。こういった文脈を考慮せずに、考察をするのもあれですが、感想ということで少し気になったところを考えてみようと思います。


 まず冒頭に書いたような「ゲームとしての」恋愛という書き方によって言い表したかったのは、そもそも「恋愛」という社会的な関係を、ある一つのルールを持った単なる「ゲーム」として体験することがあり、またこの点を強調する必要があったからです。この映画では、もちろん明示的に「悪戯のゲーム」が展開されています。しかしこの「悪戯のゲーム」が最後には恋愛の関係を形作るまでに至り、そしてそれ自体が「恋愛のゲーム」足りうるということが示されます。ここで「恋愛のゲーム」というのは、もちろん当事者らにとっては「本当の恋愛」としても感じられるということを意味しています(この点については言語ゲームの考え方と一緒に口述します)。そしてこの暗喩は、次のようなことを表していると思われます。

 すなわち、自明な諸前提が共有されている社会的関係において、実はそれらが単なる「ゲーム」としての性格しか持たないということを指摘していると。つまりこの映画では、明示的な「悪戯のゲーム」が、日常生活において普通に営まれる社会的な関係(のゲーム)と同じ原理でありうるということを示すことによって、日常生活そのものが「ゲーム」としての性格しか持っていないということを強調しています。

 そしてまた、だからこそ、このように自明な日常がそもそも単なる「ゲーム」であることへの感覚を持つことによって、逆説的に社会的なものを突きぬけていくような究極的には二人だけの恋愛関係があり得ることを表現しています。

 さて、以上のことを先にまとめておけば、次の点を教訓的に示すことこそが、まさにこの映画の本意ではないかと思われます。


1)「社会の関係」が「ゲームとしての性質を備えた関係」と区別がつかなくなるということ(自明な社会関係も特定のルールに沿ったゲームとして扱えてしまうこと、あるいは体験してしまうということ)。
2)しかしだからこそ恋愛関係は社会的であるとともに社会的なものでなくなることがあるということ。

 

まず1)に関して。

 この「社会の関係」が「ゲームとしての性質を備えた関係」と区別がつかなくなる、というのは、先に少し書きましたが、「悪戯のゲーム」と実際の「社会の関係」と区別がつかなくなる、ということです。ジュリアンとソフィーは単なる「悪戯のゲーム」として関係を築いていきますが、徐々にこの「悪戯のゲーム」が本当の恋愛関係なのかどうかが、お互いにとって大きな問題になってきます。つまり、「悪戯のゲーム」が「(日常の)社会の関係」と同等の扱いを受けることとなり、そしてその線引きがどこにあるのか、という無限後退しそうな問いを抱えます。

 そしてこの無限後退のために、二人の「悪戯ゲーム」は時を隔てることになるのですが、しかしだからこそ、次に示すように恋愛関係そのものを突き抜けるような、非社会的な関係を体現することとなります。

 

次に2)に関して。

 そもそも恋愛とは、ふつう、社会的な関係であるがゆえに日常言語=自然言語のゲーム内にて行われる(べき)ものです。例えばある社会の関係から、二人が恋愛関係へと発展することを考えればこれは十分に理解できる事かと思います。だれかと恋愛をしようとする場合、かならず社会的な認知体験(このひとはどういう人で…)のもと、特定の関係が展開されるからです。このようにして、ひとまず恋愛は社会的であるということが出来ます。

 しかし恋愛がふつう始まりにおいて社会的であると同時に、繰り返しになりますが、恋愛関係「そのもの」は社会的な関係ではなくなることがあり得ます。この作品は、端的に言ってこの点まで含めて射程に入れていると言えるのです。

 ある幼い男女が、たまたま二人の関係を特に明示的に規定することなく、シンボリックなブリキ缶を交換することによって相手の提案(ほとんどが悪戯をほのめかすような)をこなしていく「ゲーム」が開始される。
もちろん面白半分で、まして真剣な決定ではなく。紹介にもあった通り一方が提案した悪戯を、他方がこなす。他方が提案したそれを一方がこなす。この契約ゲームには、二者以外が参加することはできない様にできています。そして、互いの意地が互いの意地を惹起することによって、互いにやめるにやめられない状況を作り出してしまうというわけです。
 このように幼少期に始まったこのゲームは、思春期を過ぎた段階でも続きますが、子ども心をもって純粋無垢に行われていたゲームに、他の日常的な社会関係をレファレンスすることによるノイズが徐々に入ってきます。思春期の男女が、常々上のような悪戯の契約ゲームを、日常生活におこる処処の事情よりも優先して行うことに少しずつ互いに疑問に思うことが増えてくる、と言い換えてもよいかもしれません。お互いの関係以外の社会の関係、つまり一般的な恋愛関係をレファレンスすることが可能になった思春期に、今のような契約ゲームを「常に二人で」行うことは、これは逆説的に恋愛そのものではないのか、というわけです。
 ここで一端整理しておけば、1)の通り、幼少期では「日常の世界/ゲームの世界」という対比が、青春時代には「恋愛の関係/ゲームの世界」という対比に置き換わり、なおかつどのような区別が生活する上で自明なのか、もはや判断が付かなくなってきています。そしてここで描かれる恋愛関係というのが、先に書いたように、社会的な関係から始まるにもかかわらず、社会的な関係ではないと感じられる「(単なる)ゲーム」の世界において体現されていることに注目しなければならなりません。まさにこそこにこそ、当の映画の最も大きな意義があると思われます。
 つまり、社会的な関係として築かれた「悪戯のゲーム」は、いつの間にか恋愛として二人の間の特殊な「ゲーム」を形成しており、この「ゲーム」としての感覚を強く持つことによって、日常を相対化することのできる非社会的な恋愛へと到達するということです。例えば主人公のジュリアンが社会的な全ての事柄よりも、トリップできると言っていた当のゲームとは、逆説的にまさに恋愛そのもので「も」あったということです。
 しかしもちろん、この非社会的体験としての恋愛は、常に社会的体験としての一面を伴っていなければ成立しなければいけません。つまり、恋愛をゲームとして体験するためには恋愛とは何か、を社会的に知っている必要があるということです。例えばお互いが最後にゲームそのものを恋愛として享受するまでの道程で、「悪戯のゲーム」そのものを社会的に日常の側から位置づけようとしたとき(これはゲームなの?恋愛なの?という素朴なあの問い)、ゲームは平凡に社会的な関係の正当性によって(恋愛という「常識的な基準によって」)位置づけられます。にもかかわらず、恋愛がそのようなもの(ゲーム)でしかないが故に、やはり今ある「恋愛のゲーム」でない「ゲーム」を志向しようとします。ここに非社会的な「恋愛のゲーム」が描かれているということです。であるがゆえに、この映画はグロテスクな恋愛の不安定な側面(社会的かつ非社会的なアンビバレンス)を扱っている、と考えられます。

 

 このような「ゲーム」と「社会的関係」(これは本来同じようなもので、論理タイプ違うわけではないのですが)の拮抗の中で、つまりこれはゲームか?実際の現実か?という問いの中で、まさにその問いの反復にしか恋愛はあり得ない不可能なものである、というのがこの映画のモチーフなのだと総括したいと思います。