touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】「もらとりあむタマ子」

 

 「もらとりあむタマ子」、昨日見てまいりました。

 あっちゃん主演ということで明らかにひいき目で見てしまいますが、何にせよトレーラーはこのようになっております。

 


映画『もらとりあむタマ子』 - YouTube

 

マイ・バック・ページ』『苦役列車』の山下敦弘監督が前田敦子を主演に迎えた最新作。東京の大学を卒業したものの故郷の甲府に戻り、就職もせずひたすらダラダラと過ごし、中学生にまで同情されてしまう残念な主人公・タマ子の1年を、四季の風景の移り変わりを交えて描く。山下監督の朋友、向井康介が脚本を、星野源が主題歌を担当している。[ぴあ映画生活]

 

 内容を兼ねて、以下のようなことを考えながら観覧しました。結論から言えば、あっちゃんを女優としてかなり高く評価しなければならない素晴らしい映画でした。(もっとも、映画の内容的には重要なモチーフが幾つかあり、それ自体別個に論じられてもよいぐらい象徴的なものですが 。例えば大きい部分でいえば、父親と娘の家族関係、地方そのものの問題、季節の移り変わりが生活を輝かせるということ、などなど考えられます。ですのでまずあっちゃんではなく、この辺、覚えている範囲で感じたことを雑駁に書きなぐってみます。)

 

・大学卒業後、地方の田舎にある実家に帰ってきたタマ子。そうしてタマ子は父親と二人で「地方」生活を送っている。

 

・(印象的なこととして)まず特筆すべきは、地方の、しかも田舎で「生活すること」のリアリティが主演の前田敦子からひしひしと伝わってくるような設定になっていることである。例えばタマ子のしぐさや家の茶の間-空間そのもののリアリティ。こたつ、みかん、お茶。さらに灯油を入れにくためのじゃんけん勝負。どこの家庭でも一度はどれかに当てはまるような、そのような「生活すること」のリアリティ。一度大学卒業後に「実家」に帰省する必要があった人なら誰でも(そうでなくとも一度ある程度の期間帰省することがあれば)、必ず似たようなリアリティを体験しているはずである。


・さらにタマ子が就職活動もせずに家でダラダラ生活しているモラトリアム状態から、実際にもありがちなように、よく父親と喧嘩をしてしまう。そしてこのような親子関係のコンフリクトが起こる一般的な原因に関して、この映画は鋭く指摘している。つまり、互いの生活状況(に埋め込まれた行為)を常に毎回同じように反復してしまう相互依存関係に陥ってしまうこと、そして一度関係を象ってしまうと、この関係の反復そのものが新たな関係の前提となり、ついには常に同じ依存関係を生み出してしまうことを描いている。なぜか。この関係はお互いの人格と属性によって形成される予期を前提にするからである。タマ子は無職、そんなタマ子に対してなにもいえない父親、という強い予期が相互に作られてしまう。お互いがお互いを「どうしようもないヤツだな」と位置づけをしてしまうからこそ、予期が形成されてしまう。だからこの依存関係から抜け出せない。ふつう、親子の関係はかたちは違えど、常にこうならざるを得ないだろう。


・そしてこの映画では、このような家族関係を作り替えることの処方までわざわざ言及してくれている。設定として、父親は何らかの理由で母親と別居している。タマ子が地方に帰ってきた時には、父親と二人で生活しなければならない重い現実があり、それゆえ相互依存的な関係をどうしようもなく築いてしまっていたのだが、父親は後にある女性を紹介してもらうという機会をもち、このことをきっかけに父親とタマ子の相互関係に今までにないような接し方が芽生えてくる。父親に新たな恋人ができるかもしれないという予期がタマ子には生まれ、このことにあわせて、「お父さんは新しい生活をするか/しないか」というコミュニケーションが生まれる。したがってここでは、相互依存関係に陥っている状況に際しては、少なからずその関係以外の関係をレファレンスすることによって関係やコミュニケーションの在りように刺激が与えられ、(良くも悪くも)現状の関係の作り替えがおこなわれる可能性を示している。

 

・だが、実は映画の主眼はここにはない。もちろん親子関係が変化することへの希望はなくはない。しかし「まさに」この映画では地方の発展に希望が持てないことと、この現実に関連する日常の「あるがまま」という事態を強く肯定することへの称賛が含まっている。でなければこのような映画が撮られることはなかっただろう。

 
・つまり、何もなく淡々と同じように過ぎ行く(近代的な単線的時間感覚が欠けつつる地方の)日常のなかで、「それでもこのような(社会・経済的な意味での)発展とは程遠い地方でそのように日常を生きること」への強い肯定がこの映画のメインテーマだと言える。例えば、中学生カップルを見守るタマ子の視線でさえも。


・したがって映画自体を、そもそも「生活」とは何か、という視点からから読み解くことが出来る。「生活」というトータルな過程を、意志をもって何か目標を立て、それに向かって努力をする、という基本的かつ自明な活動として捉えるのではなく、「今・ここ」そのものを単なる生活として過ぎていく「完全なるもの」として描ききっている。

 

・地方で田舎暮らしの無職、このような「ありのままの日常」に苛まれそうになりながら、しかしそこにこそ得られる父親との依存関係。このようなふつうにみれば絶望的な状況でこそ、だからこそ季節の描写と相まって、何もない素晴らしい時間が見出されるのである。

 

 というような仰々しいことを長々と書きましたが、豆みたいな顔してたあのあっちゃんが、こんな演技が出来るようになっていたなんて…というのが正直な感想です。あっちゃんがまた役にハマっているように思いますし。

 ややこしいことはさておいても、最近特有の「生きにくさ」みたいなところを(地方と就職と労働と親子関係などに絡めて)象徴的に(上手く、しかも複雑な心境から肯定的に)描いているという点においてだけでも、非常に見る価値のある映画だと思います。(あと単純に楽しいので)