touta1107の日記

大学院修士課程を修了し、この度社会人となりました。

【映画】リービング・ラスベガス

 お正月の時間のある時に、遂にみました「リービング・ラスベガス」。ここ何か月日間、ニコラス・ケイジ特集ということで、主演映画などはほとんど見てきたのですが、この映画では、明らかにいつものニコラス・ケイジとは違った表情がみられます。

 個人的には「天使のくれた時間」がベストなのですが。今回の映画では、やはり違った意味で、すごく感銘を受けるものでした。


LEAVING LAS VEGAS - Trailer ( 1995 ) - YouTube

  

 トレーラーはこのように、なんだかキャッチーな感じに作られていますが、割と内容はシリアスです。基本的に映画の中では一貫して、社会的なものとそれ以外のものとしての死、がテーマになっているからです。

 また、主にベン(ニコラス・ケイジ)が死へと向かう過程と、そのベンの死に関わる極めて社会的なサラ(エリザベス・シュー)の存在が描かれているからです。せっかくなのでこの二人の関係について、その関係の変化とともに映画について考えます。

 

ニコラス・ケイジ扮するベンは、アルコールへの依存が度を超えて、病的なまでに飲酒を繰り返し、自身の存在そのものを否定しようしている。ここで言う「否定」とは、劇中にも出てくる通りに語らせれば、「まさに弱い自分を隠す、本当の自分をみせないための」一つの方法である。また、このベンの飲酒は、映画の視聴者にとっては狂気をまとった自己破壊のようにも映る。

■このように飲酒を繰り返すこと自体は、一定の「度を越す」ことによって、当然、社会的に正常なものとして位置づけられない。アルコール依存症、そしてアルコール中毒になる前にはもちろん社会的に正常であったベン自身、だからこそラスベガスに移ってきて、それでもやはり飲酒を繰り返してしまう自分に、孤独な思いを馳せることになるのであった。これは、誰かと関係したいという純粋な社会的欲求であもる。

■そして飲酒を繰り返してしまうことを自覚しながら、飲酒による死を覚悟しているものの、孤独にさいなまれながら、まさにその覚悟ゆえに娼婦サラと関係を持つことを選んだ。ふつうに見れば、社会的な弱者として位置づけられる不浄な労働者としてのサラ、アルコールを浴びること以外に生きる方法を見つけられないベンという組み合わせは、弱者が弱者を見つけて相互に依存状態に入っているとされても仕方がない。まさに「社会的に弱い立場にある」、と社会によって境界を引かれてしまった者同士が、互いに寛容な、そしてある意味異常なまでの結びつきを求めあうことなど、その典型であろう。

■もちろん、この映画がそういった点を示唆しないわけではない。だが、自己破壊に向かうベンとそれでもそこに愛を見出すサラの組み合わせは、単に依存関係を象徴するにとどまらない部分がある。これはサラのベンに対する態度に見ることが出来るだろう。

■はじめに、サラは出会った当初からベンの飲酒行為に寛容な態度を採る。例えば、プレゼントとしてスキットルを渡すことからも、そこには飲酒への明らかな肯定がある。つまり、サラは自身の弱さをベンに投影し、この段階では互いに社会から排除された存在であることの相互承認を得ようとしている。まずはこの段階こそが単純な弱者の依存関係だと言えるだろう。

■しかし徐々に映画が進むにつれ、サラはベンの健康を気使う態度を採るようになる。これは至極まっとうな社会的な態度であり、そもそも社会から排除されているサラでしか採れない、飲酒を許すあの寛容な態度ではない。つまり、この段階でサラは社会からの包摂を希求している。互いの存在に関して、「普通の」健全な関係を望むのである。しかしこの寛容でない社会的なサラの態度に対して、それでもベンは頑なに飲酒をやめようとしないのであった。

■そして最終的にサラはこのようなベンの態度を再度受け入れることを選ぶ。この受け入れは、もはや単なる弱者の依存関係ではありえない。なぜか。それはベンの死が近いというこの端的な事実を、当の二人が恋愛へと高めることが出来たからである。これは互いの弱さゆえに一度依存の関係を作り出したにもかかわらず、しかし次にその弱さこそがひとつの愛足りうることに気付いたからである。それゆえに、社会的な領域の気配をまったく感じさせない、脱社会的なただ二人だけの体験を形づくることが可能だった。ふたりが最後にベットで交わるシーンは、この脱社会的な死を交えた共有された体験へと向かう、というモチーフが挿入されているのである。